「愛しているよ。」と言って、尾浜先輩は死んだらしい。ずるい。どうして僕ではない人に言うの?なんて、思うだけは、きっと自由だ。僕は所詮一後輩でしかなくて、後輩として愛されていたに過ぎない。知らなかった。分からなかった。気づかなかった。


先輩たちが卒業して三年経ったある日、尾浜先輩の訃報が、尾浜先輩の愛した人によって忍術学園に伝えられた。瞼を伏せて学園長先生と話すその人のことを、僕は好きでも嫌いでもなかった。絹のような黒い髪は、ずいぶんと短くなっていた。僕はその姿が、好きでも嫌いでもなかった。

卒業してから三年の間にも、尾浜先輩は僕を何度か食事に誘ってくれた。先輩は忍者にならなかった。六年生のある時、足に傷を負い、それが原因でなにかの病気になった。それは新野先生にも、町の医者にも分からない病気で、尾浜先輩は早々に忍者になることを諦めた。守秘義務に縛られることのない尾浜先輩は、卒業してからの生活を僕に楽しげに話してくれた。「でもさ、彦四郎は、忍者になってくれよ。ああ、強制はしないけどさ。でももしなりたいって思っているんなら、ぜひ成ってほしいんだ。彦四郎は優秀だからいい忍者になるよ、絶対に。そうだ。"敵を侮る病"は治ったの?」。ケラケラと笑う先輩のことが、好きだった。

暖かい大地に映える花のような先輩のことが、好きだった。風に吹かれて茎から揺られるような、太陽の光を浴びて花弁を広げるような、月の光で輝くような、今を全身で生きる先輩のことが好きだった。宙を蹴り、舞うように走る先輩のことが、好きだった。身体を宙に投げ出し、捻り、回旋しながら、大気に身を委ねて敵を翻弄する、先輩のことが好きだった。真っ暗な夜に少しの時間だけ現れる、満天の星空のような先輩が好きだった。僕の落ち込んだ心を、慰めるでもなく、励ますでもなく、からかいながら、笑いながら元気にしてくれて、それでもすぐにその目線が誰かの元へ移ってしまう、そんな先輩が好きだった。

寒い朝、いつもより早く目が覚めたとき、偶然先輩と会った。寒いね。と言うので、寒いですね。と返した。僕が手袋をしてなかったので、両手で包んで暖めてくれた。しもやけが出来るよ。ケラケラと笑う先輩のことが、好きだった。


とぼとぼと歩いていると、久々知先輩が正面から歩いてきた。この人は僕にとっての何だったのだろう。恋敵か。ただの先輩か。僕は足を早め、すれ違う時に会釈をした。ちらと顔を上げたとき、かすかに目が合うと、その瞳は静かに微笑んだ。僕はつい呼び止めた。

「久々知先輩」
「え?」

すこし目を見開きながら止まる。

「……………。」

呼び止めたはいいけれど、何と言ったらいいのか分からなかった。よく考えたら僕は、この人と特に仲が良いといいこともなく、話し込んだこともない。続きに困っていると、久々知先輩は言った。

「勘右衛門、死んだよ。」

その顔が悲しく曇る。

「…久々知先輩は最期を、看取られましたか」
「うん」
「…尾浜先輩は死ぬとき、何か言っていましたか」
「ああ……………………。愛しているよ。と言って」

死んだよ。

「………そうですか…。」

僕と久々知先輩の間に、進むことのない時が流れる。澄んだ水の奥に広がる、深い青のような低い声でそう言った先輩は、そのまま背を向け、歩き出した。僕は拳を握りしめ、それを解くことはなかった。じわじわと何かが溢れてきて、涙が止まらない。はたと地面に涙が落ちたのを見て、慌てて空を見上げる。今日は晴れ。冷たい風が吹く。

「あーあ」

尾浜先輩が愛したのは、あの微笑みだったのだ。あの微笑みから、もうあの人を奪えない。それが、死んだということなのだ。あの人が、「死んだ」ということなのだ。

「あーあ」

元からあの人は、僕が奪えるような、僕を好きになってくれるような、そんな人ではなかったかも。愛されていると思っていたけれど、それは間違いだった。いや、愛されていたとは思う。僕の求める愛ではなかったのだ。

「あーあ。さびしい…。」

「愛しているよ。」と言って、尾浜先輩は死んだらしい。ずるい。どうして僕ではない人に言うの?なんて、思うだけは、きっと自由だ。

inserted by FC2 system